2015年06月14日
波佐見焼
我が国では焼物のふるさとが全国津々浦々に散在していますが 中でも波佐見焼は有田,伊万里と同時期の発祥でありながら 地理的にも近いという事情から 有田焼或いは伊万里焼と包括の同一名で称せられ 隠された一面を持つと同時に 後に庶民に寄り添いその暮らしを見つめてきたという 長い歴史の一面を併せ持った産地であります。
さて この波佐見焼の魅力は 一にも二にも青磁の技術であります。
どちらも磁器生産という点では同一視されても致し方ありませんが この点が似て非なるポイントであります。
染付や色絵技法を施す有田や伊万里と異なり 草花の模様を彫ったものや 梅や牡丹の形を貼り付けるなど 波佐見焼は肥前でもトップレベルの青磁を生み出していました。
そして17世紀には中国陶磁器の代替品として 本国に勝るとも劣らないその高い技術力から 海外輸出の対象となっております。
今申しましたように 輸出品は青磁の大皿や染付の大鉢などが主流で 国内唯一の開国の地・長崎出島を通じて東南アジア諸国などへと大量に運ばれ 磁器の量産体制がここで整うこととなります。
そして元禄年間には精緻な絵付けなどで 庶民からは益々遠い存在になりつつあった有田の磁器を 国内向けの日常食器へと転換するキッカケをつくったのも 実はこの波佐見焼でありました。
特に当時,淀川を行き来する三十石船(くらわんか船)で 酒や飯を商う商人相手に安価な日常食器を提供し また輸出用の酒や醤油を入れるコンプラ瓶(当時を偲び 模写品が現在でもつくられています)と呼ばれる瓶の生産を 一手に引き受けたのであります。
このように庶民には手の届かぬ高価な磁器を 量産に因るコストダウンとも相俟って 手に入れることのできる物へと普及させたのは これ一重に波佐見焼の功績であったと言えるのであります。
こんな歴史を振り返ってみましたが 現在では何点も伝統工芸品の指定を受けてはいるものの 基本的にこの産地が当時の姿勢を変えることはありません。
そして未だに私共のような流通に携わる人たちの段階で 波佐見焼きという産地名をウリにされているお店は 皆無といって差し支えないほどで 詳しく正確な産地名をお知りになりたい場合は そのお店にお尋ねするより他ございません。
投稿者 Sugino : 23:31 | コメント (0) | トラックバック
2015年06月07日
関の包丁
過っては名刀の里と呼ばれ この地で名工たちのつくる刀は質実剛健 折れず,曲がらず,よく切れると三拍子揃った名刀を次々とこの世に出してきました。
秀吉や信玄といった戦国武将を始め 沢山の武将たちが帯刀し 実戦での成果を挙げてきたのです。
此れ偏に室町期には300名をも超えたと言われる 刀鍛冶職人の妥協の無い職人魂の産物でありました。
中には「孫六兼元」や「和泉守兼定」といった 超の付く名工も数多く輩出しています。
やがて幕末に入りますと 本格的な武器は鉄砲へと移り その後の刀剣は美術品として残る運命となります。
しかし戦後はこの刀剣に変わり その技術をそのまま生かせる庖丁づくりの刃物の街へと
関市は変遷して参りました。
さて日本の懐石という繊細な料理を例に挙げれば 料理人はお気に入りの自分の庖丁一本で コース料理を仕上げてしまいます。
当に此れが日本の庖丁文化ともいえるもので 流派も多く,捌いて盛り付ける技術は他に類を見ないものであります。
鋭い切れ味の庖丁で捌かれた食材は 切り口も綺麗で盛り付けられた料理などは 勿体なくて手が付けられないような 完成した美術品を目の当たりにする錯覚に捉われます。
そしてこの庖丁の製造工程の中でも 最も重要とされるのは「刃付け」と呼ばれる作業で 3年以上の経験を経た職人のみが許される工程であり 削りすぎては欠けてしまい 微妙に厚ければ切れ味に影響するといいますから そのサジ加減はベテランのみが修得された技術と言えるのです。
そして選ぶ際の価格に因る判断ですが 高ければ切れ味も良いとは限らず 飽くまで材料の価格に因るものだと断言されました。
この点は是非ご記憶に留めておいて下さい。
つくり手が目指しているものは 如何に力を入れずに切れる庖丁をつくるかという事で この会社では切れ味を試すため 月に数百本の人参を使うそうであり 著名な料理人からも専用包丁の製作依頼がひっきり無しという事でありました。